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ミズシ(河童)のねり薬  [口能登・志賀町の民話・伝説]

 (参考:『加賀・能登の伝説(日本の伝説12)』角川書店)

 ミズシとは、志賀(しか)町高浜地区の方言で河童のことです。高浜は志賀町の中心街です。高浜のバス停から北1.5km、米町(こんまち)川に架かる渕端橋(志賀町末吉)を渡ると、左にミズシの練り薬“疳薬”(五臓・強壮)を伝える渕端家があります。

 ミズシ(河童)なぜミズシの練り薬と呼ばれるか、その話をこれからしましょう。

 慶長年間(1596~1615)のある日、米町川(当時は神代(かくみ)川と呼ばれた)の川辺で、渕端家の祖先にあたる武士が馬に水浴させようとしたところ、ミズシ(河童)が馬の尻尾に飛びつき、川へ引きずり込もうとしました。
 驚いた馬はミズシをつけたまま屋敷に逃げ帰りました。

 最初何が起きたかわからず暴走する馬を必死に追いかけた主人は、尻尾にしがみ付いて半ば気絶していたミズシを見つけて原因を悟り、すかさず捕らえました。途中で気付き逃げ出そうともがきますが、水の中では馬に匹敵する力を出すミズシも陸(おか)の上では力が出ません。能無しです。主人によって楽々と押さえ込まれ、家の前のタブの木に縛り付けられてしまいました。

 そして主人はその後、棒や素手などで折檻を始めました。

 ミズシは堪らず、秘伝の万病に効く妙薬の調合方法を教えてくれるから助けてくれ、と嘆願しました。主人も殺すまでは考えておらず、心のうちでもうそろそろやめようかと考えていたところなので、聞き届けました。

 手が使えるように縄を一部解いてやると、ミズシは、紙をもらうと自分が流した血をミズカキのある手の指先に付け、薬の調合方法を書きました。一種類の薬なので、短い文章で十分だったのです。

 それが本当に効くかどうか一度試してみないとわかりません。主人もその時はあまりアテにはしていませんでしたが、これだけ懲らしめてやればもう悪さはしないだろうと思ったのです。調合方法を書いた紙をもらうと、縄を完全に解き、ミズシ(河童)を許して放免したと伝えられています。

 その事件の後も、お礼に川魚をツブレ(釣瓶)に入れて、自分が縛られたタブの木にかけおくことがあったといいます。そのタブの老樹は今でも同家の前にそそり立っているということです。
 面白いことに、このミズシの墓といわれうものもあり、志賀町堀松のはずれの宗泉寺(曹洞宗)の山門を入ったすぐ左手にあるということです。


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妙観院の鐘 [中能登・七尾の民話・伝説]

 (出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))
 
 七尾町の西郊の湾に臨む海岸べりに妙観院(七尾市小島町)という古刹があります。巨岩を穿(うが)ちて、その間に洞門を通じ、海よりの岩の上には大悲殿鐘楼が築かれております。風景は絶景にして七尾名所の一つでありました。

 伝説では、昔、妙観院の鐘を鋳造して鐘楼に吊るしたが、ある夜、うなり声を立てて鐘は鐘楼を抜け出て、崖下の水の中に深く沈んでしまいました。このようなことが一度ならず何度かあったので、これは釣鐘の吊る部分が龍頭であるので、龍となって海の中に入るものであるといわれました。

 その後、新たに鐘を鋳造した際、龍頭(鐘を吊る部分)を龍の頭ではなく、竹と虎のデザインに替えたが、今でも妙観院の鐘の龍頭は竹と虎のデザインとなっている。そして海の水が澄んでいる時は、海の中に沈んだ鐘があるのを確認することができたといいます。又、松百橋(七尾市松百町)でも、妙観院へ奉納しようとした鐘が、運ぶ途中、水の中に沈んでしまったと言い伝えられています。

 ここまでは『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊)を現代文に書き改めただけで、そのまま紹介しました。この本が書かれた昭和3年に海際にあったこの寺も、今では周囲を埋め立てられ、海から100m以上離れてしまいました。

 この伝説に関しては別伝では、鐘が海に引きずり込まれる理由として、約300年前、願いがかなわず入水した女性が龍に化け吊り鐘を何度も海へひきずり込むのだというものがあります。その話の方がよく知られています。竹と虎の吊り手も、全国にただ1つのものだそうです。

 この竹と虎の吊り鐘の話は、地元では“妙観院七不思議”として知られる話の一つで、他の6つは「底なし池の不思議」、「観世音菩薩像の不思議」、「弁財天の不思議」、「夫婦岩の不思議」、「獅子岩と鼓岩の不思議」、「そうめん不動尊の不思議 」で、また機会があったらここで紹介します。

 さらにこの寺の説明を付け加えておきましょう。真言宗高野山派の寺で、井上靖なども北陸の名刹として紹介しています。また快慶が作ったと考えられている仏像や、最近亡くなった地元出身の流行時代小説家・戸部新十郎の墓などもあり、小さな寺ながら訪れる者が多い観光スポットとなっています。


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ムジナの失敗 [奥能登・輪島の民話・伝説]

 (参考:『鳳至郡誌』他)
 昔、寛政6年(1794)といいますから、今から200年以上も昔の話です。
 町野(現輪島市町野)の鈴屋という在所に、男と娘がおりました。二人はいつのまにか仲良くなって、毎晩宮森というところで、逢引していました。そのうち娘は、子を孕(はら)んでしまいました。こっそり会っていたので、親に知れると大変です。
 そこで娘が言いました。

 「とうとう、こんなことになってしもうた。死ぬより他に道ぁないわね。」
すると男が言いました。
 「お前に死なれたら、おらやって、生きとる甲斐が無い。どうして、おまいだけ死なそう(死なせるもんか)。」
 「ほんなら、一緒に死んでくれるか。」
男は一瞬躊躇(ためら)いをみせ言い淀んだが、じっとこちらを見つめる娘に思わず、頷いてしまいました。

 やがて、約束の夜がやってきました。
 その晩、やはり男は死ぬのを恐れて、約束の場所へは行かないことにしました。娘も行かなければ死ぬのを諦めるかもしれないと考えたのです。「男は度胸、女は愛嬌」などとと言いますが、実際はいつの時代も女の方が度胸がいいのかもしれません。

 娘が宮森のはずれに月明かりを浴びて待っていると、しかしどういう訳か男が姿を見せました。勿論、娘は男が死ぬのを怖がったことなど知りませんから、不思議にも思わず早速心中の用意を始め出します。

 松の木の枝に一本の縄を吊るして、二人はその両端に首を結わえました。一、ニの合図で、二人は台石の上から飛び降りました。ところが、不思議なことに、男の体が妙に軽く、そのため娘の足が地面についてしまいました。

 娘は変に思って、空高く吊るしあがった男を見れば、これはまた不思議、男のはずが男ではなく、一匹のムジナがぶら下っているのです。頭をぐったり垂れて、すでにこの世のものではありません。
 娘は吃驚仰天し、我家へ駆け戻りました。

 ことの起こりは、このムジナもやはりこの娘に恋焦がれていたのでした。
 ムジナは宮森の主でした。男と娘が約束を交わした夜、宮の縁の下に隠れて二人の話を聞いていたのでした。ムジナは男が死を恐れて来ないのを知ると、男に化けて、娘と自分が心中しようとしたのです。


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蛾山松 [口能登・宝達志水町の民話・伝説]

 (参考:『志雄町の民話と伝承 第一輯』志雄町教育委員会) 
 
 昔、敷浪村と宿(しゅく)村との境に「大久保山」という場所があり、そこに松の大木が茂っていました。それはそれは大変大きなもので、木の傘の下に何十人もの人が座れるぐらいどっしりとした松の木でした。

 この辺りは、海が山に迫り、海岸沿いに歩いて行く方法もあるのですが、集落がある街道沿いに行き来する旅人には、海岸道は迂回路となります。それだけにこの道は越中・能登方面と加賀を結ぶ街道の一つをなしていました。

 昔々、その松の木から少し離れた所に、‘がさんまつ’と言う名の若くて大変荒っぽい気の強そうな顔の男が、小さな小屋を建てて住んでおりました。彼には、それでも妻がおり、物盗りや追いはぎをしては、旅の人をあやめて暮らしていました。

 どうやるのかというと、がさんまつは、毎日毎日その大きな松の木にいとも簡単にスルスル登っては、木の股にどっかりと座り込み、松の木の下の道を歩いていく旅人の様子を眺めて金になりそうなカモを待つのでした。お金をもっていそうな人や、立派な着物を着た人たちを見つけ次第、木をするする降りて、脅かし、お金を巻き上げたり、着ぐるみ剥ぎ取ったりして、旅人を困らせていました。

 ある日のこと、いつもの様に、松の木に登って、道の向うから獲物がやって来ないか、と眺めていました。どれだけたった頃でしょうか、がさんまつの目に、それはそれは立派な着物を身につけた娘と、その娘のお供らしい女の二人連れが、急ぎ足でこちらへ歩いてくるのが見えました。娘は身なりからして、相当名のある大店のお嬢さんらしく、顔立ちも大そう美しく、気品もありました。またお供している人は、店の使用人らしくいかにも忠実そうにぴったりとくっ付いて歩いていました。

 がさんまつは、「しめしめ、これは相当なカモだぞ。しかも、うまい具合に、二人の前にも後ろにも、人影が見当たらないぞ。」と、思いながら、松の木からするりと降りて、木の陰に隠れて、二人が近づいてくるのを待ち伏せしました。

 そして松の木の前まで来ると、二人の前に両手一杯拡げて立ちはだかり、
 「おい、こらっ!待ちな!そこの二人、命が惜しかったら、着ている着物身ぐるみ脱いで、着物とお金を、そこに置いていきな!」
と、ドスの効いた声で驚かしました。

 娘とお供の者は、声も出ないほど吃驚しました。逆らえば何をされるかわからないと思って、言われた通りに大人しく来ていた着物を脱ぎ、財布と一緒に松の木の下にそっと置きました。そしてお供の人は、「命だけはお助け下さいませ。せめてお嬢さんだけでも助けて下さりませ。」と、ヘタヘタと座り込み、震える声で、がさんまつに命乞いをしました。

 がさんまつは、「おまえ達の命なんぞとっても何の足しにもならぬわ。これだけ貰えればいいのよ。もう用は無いから、行ってもいいぞ。さっさと消えうせな!」と、奪った品を脇に抱え、大きな声で怒鳴りつけました。
 身ぐるみはがされた娘とお供の人は、真っ青な顔で打ち震えていましたが、気が変わって殺されないうちにと、お供が娘を抱え起こすとすぐに、途中何度も転びそうになりながらも、一目散に逃げていきました。

 それから、その娘とお供の人が、すぐに役人に訴えに行ったのか、それとも、どこかのうちへ飛び込み、助けを求めたのか、またそのまま、自分のうちまでやっとのことで逃げ帰って行ったのかどうかは知りません。逃げ足には自信がありましたから、手に負えない追っ手が来たら逃げるだけ。そんなことは、がさんまつにはどうでもよく、彼は、気を良くして、小屋の方へ帰っていきました。

 小屋に帰ると、がさんまつは、早速、脅し取って持ち帰ってきたものを、自慢げに妻に渡して、今回の追い剥ぎの一部始終を話しました。女房は、がさんまつの話も、うわの空で、奪ってきたものをあれやこれやと手にとってじっくりと品定めしていました。がさんまつの話が終わると、妻は、がさんまつに、こう言いました。

 「その娘っ子は、この着物から想像するに、さぞや相当大きなお店の娘じゃったろうな。」
 「そうや、いかにも大店の娘らしく服も立派じゃが、顔も言葉やしぐさも上品だったぞよ。」と答えると、妻は
 「ならば髪の毛の、綺麗じゃったろ。黒光りする立派な髪の毛をしていたのに違いなかろうに。どうだった?お前さん!」と聞いてきます。
 がさんまつは、「顔はまれにみる美人じゃったがなー、髪の毛はどうだったかな。うーーむ、そういわれてみると、そうだ、何ともいえぬ綺麗な黒髪をしていたような気がする。」と答えました。

 それを聞いた妻は、急に顔を真っ赤にして怒鳴り出しました。
 「何で、その娘っ子の髪の毛を切って持ってこなかったの。何で髪の毛を切らなかったのや。あーーおらの髪の毛にしたかったのに!」
 がさんまつは、その言葉を聞いて、「うちの女房は何と恐ろしいやっちゃ。何を考えておるんやろう。女の命ともいえる髪の毛を切ってこいとはなあー。何と恐ろしい、鬼のような女だわい。」と、つくづく愛想を尽かしました。妻とはそれを機にあっさりと別れることにしました。何も告げずに妻のもとを去りました。

 それからのがさんまつですが、今までの悪さを悔い改めようと仏門に入ったといいます。そして後々に立派なお坊さんになったと伝える話もあります。それらの話では、このお坊さんこそ、永光寺と総持寺の二寺の住持を兼ね、52km離れた二寺を毎日通ったといわれる有名な峨山禅師と伝えるものが多いようです。(また峨山が二寺の間を往復するのに利用した道を峨山道と言われる)
 
 峨山は曹洞宗の方の記録では、16歳で比叡山に修行に出て、その後、瑩山禅師との問答で禅師に傾倒したとあります。よって、この話は、何の関係もない可能性が高いかと思います。 ただし、峨山は、当時の羽咋郡瓜生(現在の河北郡津幡町瓜生)出身と言われ、比叡山に登る16歳までのことや、比叡山を出た後、瑩山禅師と出会うまで不明な点だらけであり、二寺を毎日通ったという話からも修験者のような事をしていた時期もあるのではと想像され、その頃、もしかしたらこのような事をしていたこともあったのかもしれません。

 まー何しろ、がさんまつが毎日登っていたという謂れにより、この松が峨山松とよばれるようになりました。がさんまつは、実の名ではなく、松の大木に巣食った悪党のあだ名のようなものだったのでしょう。

 ところで、その後の「峨山松」ですが、今ではその松の木はありません。幕末の頃、子浦(しお)の専勝寺の再建の時、伐採されて、本堂の欄間に使用されていると言うことです。


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ミミズのたべもの [中能登の民話・伝説]

 (参考:『能登 鳥屋町の昔話伝説集』(鳥屋町(現・中能登町)・平成6年度刊行) 他 )

七尾市出身の長谷川等伯が画いた涅槃図(羽咋市・妙成寺蔵)

 昔々、天竺(インド)でのお話。多くの人々を教え導いていたお釈迦様は、80歳というご高齢になってからも、まだお弟子(阿難)一人を連れて旅を続けていました。 ある日、旅の途中に食べたものがあたって下痢になってしまいました。おそらく今で言う食中毒でしょう。それで急速に衰弱し、死期をお悟りになりました。

 お釈迦様も人の子、“できれば生まれ故郷で死にたい”と思い、最後の力を振り絞って故郷を目指し歩きました。しかし途中のクシナガラという地まで来て、もう無理とまたお悟りになりました。お釈迦様は、お弟子さんの手を借りて、2本の沙羅双樹の間に、北枕で右脇を下に向けて西に向かって臥されました。

 その後、お弟子さんは、師匠の死が近いと感じ、近くの家に入って大きな声をあげて泣いていました。それを聞きつけ、お釈迦様が亡くなりそうだということで、お釈迦様の枕元に、沢山の者達が集まってきました。

 かつての弟子達だけでなく、その高徳を慕う人々、また人間だけでなく、沢山の神々、さらには象、牛、鶏、虎、猿、兎、山羊、馬、鷺・・・など沢山の者らが周囲にやってきました。

 お釈迦さまは、それらの者らに、最後の教えをあれこれと言い遺されました。
 動物達には、何を食べていくべきかなどを言い渡しました。

 その際、大きな動物達の陰にいてミミズが、“お釈迦様に助言を貰えず亡くなられては損してしまう”と思い、動物達の隙間を通って前に這い出し、大声で(といってもやっと人間の話声ほどの小さな声ですが)こう聞きました。
 「お釈迦様、おら、これからは何を食べていけば良いかの」

 その声を聞き、お釈迦様は、
 「おおそうじゃった。お前がいたのう、忘れるところじゃった。大き目の食べ物は、ほぼ指示し尽したし、食べ残しや、こぼれ滓(かす)も小鳥達や虫たちに指示したし、残りは何があったかのう・・・・」

 お釈迦様は、この小さなミミズを憐れに思い、色々考えた末にこう言い渡しました。
 「お前は、土についた養分を濾して食べられるようにしてやろう。それならば他の者らは手も出さぬし、食うに困ることもなかろう」
 
 しかしミミズはそれで満足せずさらにこう聞きました。
 「お釈迦様、土も一通り食べつくしてしまったら、次に何を食べればいいかの」

 お釈迦様はその貪欲さに驚き呆れてこう答えました。
 「もし土も食べつくしたら、土から出てきて昼寝でもしていなさい」と。

 ミミズは、お釈迦様が亡くなってから、その通りにしました。
 欲が深いので、じきに周囲の土を食べつくしました。その日は天気も良かったので、土の上に出て日向ぼっこをしながら昼寝をしていました。

 そうしたら皮膚が薄い上に小さいので、日向ぼっこしているうちに、知らぬ間に干からびて、死んでしまったそうです。
 しばらくその地に留まってお釈迦様を弔(とむら)ってい高弟の阿難さんは、それを見て
 「欲をするにも限(きり)がない。ミミズは、お釈迦様にダラ(北陸の方言でアホ、馬鹿などの意味)なことを聞いたものである。皆も、欲はほどほどにするようにな」と言い、その地を去ったそうな。 


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狢(ムジナ)和尚 [奥能登・輪島(門前地区)の民話・伝説]

(参考『能登総持寺物語』(佃和雄著・北國新聞社出版局)他)
  門前町(平成18年2月1日輪島市と合併)広瀬に、(曹洞宗)総持寺の(※1)峨山禅師の高弟で五哲の人といわれた大徹が開いた覚皇院(かっこういん)というお寺があります。この覚皇院には、今から約四百年くらい前に、狢和尚の描いたと伝える達磨大師の絵が所蔵されています。

 地元の言い伝えでは、この絵を描いた和尚というのは、もと狢であったが、覚皇院の住職になりたい一心に、本堂の床下に隠れて、住職の唱えるお経を一生懸命に覚える稽古をしました。

 そしてお経を一通り覚えて、諳(そら)んじることが出来るようにまでなったある日、突然隙をみて住職に飛びかかり、殺してしまいました。狢はその後、住職に化けてとりすまし、それから何食わぬ顔で住職の役を勤めていました。
 お寺の人たちも、信徒の方たちも、どうも様子が以前とは違い変だな、と思いつつも、どうしてもわかりませんでした。

 そんなある日、檀家の法事に招待され、籠に乗って行く途中、鹿島郡金丸村のあたりで、犬に吠(ほ)えられて食いつかれ、とうとうその正体を現わしてしまったといいます。

 最後に、達磨図についてだが、現住職の稲垣氏によると、これは狢和尚と呼ばれた住職が鏡を使って自分の顔を描いたもので、達磨の絵だということは聞いたことがないそうである。

 ※1:総持寺の峨山禅師については、能登では総持寺と永光寺の住持を兼任して毎日往復したという「峨山道」の話が有名だが、それについては、また別の機会に紹介したい。能登における曹洞宗との歴史的経緯を含めて「峨山道」説明した頁なら、私のHPの「曹洞宗の広がりと螢山派の発展」の頁があるので、興味のある方はそちらを参照して下さい。


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羽咋の名の由来 [口能登・羽咋の民話・伝説]

 羽咋は、口能登の中心の町です。JR羽咋駅で電車を降り、駅前から真っ直ぐ商店街に進むと、右側に羽咋神社が大きな前方後円墳の南側に鎮座しています。祭神は、石撞別命(いわつくわけのみこと)です。磐衝別命とも書きます。

 羽咋の地名の由来については、「第11代垂仁天皇の頃、滝崎に悪鳥が棲み、領民を苦しめた。これを聞いた天皇は、皇子磐衝別命(いわつきわけのみこと)を派遣され、皇子は首尾よく悪鳥を射落した。この時、命の3犬が悪鳥の羽を食い破ったことから羽咋の地名が起こった」とあります。 これは羽咋神社「社記」にもとづいてのいい伝えです。

 一方「羽咋郡誌」には、「往古、気多大社祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)が、悪者平定のために矢を積み置いていたところ、鼠(ねずみ)が矢の羽を食ったことから、羽咋の地名ができた」旨の記述があります。能登一の宮である気多大社の祭神は大己貴命は大国主命のことです。気多大社の主要な祭礼である「平国祭り(別名:おいで祭り)」をはじめ、能登には今でもあちこちに大国主命の能登平定に纏わる伝説や祭りが数多くあります。

 羽咋神社「社記」及び「羽咋郡誌」、そのどちらにも「羽」「食い」の言葉が出てきます。現在の羽咋の「咋」の字は、辞書でも容易に見当たらない字ですが、古事記にもすでに「羽咋君」が登場しています。その意味はやはり「食う」「噛む」となっています。
 (参考)私のHPの「羽咋の歴史と史跡」の頁


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狐に間違われた住持 [中能登・中能登町の民話・伝説]

 (出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))

 (昭和3年から遡って)7,80年前の話である。
 最勝講(さいすこ)(中能登町最勝講)の住持が夜遅く七尾からの帰り道、急に大便をもよおし、近くに適当な人家が無かったので、徳前河原(どすがはら)の竹叢(たけやぶで)に分け入り大便をしていた。

 そこへ近くに住むある臆病な男が通りかかった。竹薮の暗がりの中で、用をたし終えて立ち上がった住職にビックリして、狐が自分を化かしに出たと思い込み、物狂いのように住持を引っ捕らえた。そして
 「おのれ狐め、オラを化かそうちゅうんかい」と怒り、持っていた担い棒を振り上げ、叩こうとした。

 住持は
 「わしは狐じゃない、最勝講の寺の住持じゃ」と言い聞かせた。しかしその住持の言い訳を聞いた男は、それを聞いて
 「おのれ古狐め、なおもオラを化かそうとするのか」とさらに怒りを大きくし、烈火のごとく住持に撃ってかかった。

 困り果てた住持は、撃ち叩かれながらもこんな興奮した男に何を言い訳しても通じぬと悟り、一計を案じた。そして言葉静かにこう言った。

 「わしは、確かに汝の言うようにこの徳前川原に棲む古狐じゃ。今後は、心をいれかえ決して人を化かすような事はしませんから命だけは助けてください。助けてくれましたら、お礼にあなた様に福徳を与えます。」

 そして懐の中から七尾の町で子供のために買った土産を取り出して、
 「あなた様が、一文欲しいと思えば"一文"とうた唱(とな)えてから笛を吹きます。二文欲しいと思い"二文"と唱えて笛を吹きます。そうすると財宝は自分の思い通りに現れる」と言いました。

 そして実際に"一文"と唱え、笛でピーヒャララ、"二文"と唱えピイヒャララ、最後に"五文"と言ってさらにまたピイヒャララと鳴らし、その都度財布から文銭をコッソリと出し、闇でよく見えぬ堂に置いた。

 どれどれと実際に銭があるのを確認し喜んだ若者は住持を許して開放した。
 住持は、嘘がバレタラたらまた何をされるか分からないので、ここぞとばかり逃げ帰った。

 昨夜の臆病者は、翌日になってから、妻子も退けて、独り座敷に籠った。そして"一文"と唱えピイヒャララ、"二文"と唱えピイヒャララと吹いてみた。しかし何時まで経っても、銭など全然現れ出る様子が無い。

 「さては、またもや狐に化かされたかな?」と疑ったりあれころ色々考えてみた。
 そしてやっと「もしや、昨夜の狐と思った相手は本物の住持だったのかも」と思い至り、恐る恐るその寺を訪ねてみた。

 住持は臆病者の問いに、じろっと視てから「その通りでござる」と答え、そして苦りきった顔で徐(おもむろ)に前夜の一部始終をその臆病者に語り聞かせた。

 男はまさに自分の思い誤りであったと気付き"御坊に大変申し訳ない仕打ちをしてしまいました"と恐縮しひたすら謝りながら、逃げるように立ち去ったという奇談が今に伝わっています。


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中能登に伝わる石伝説をさらに5話 [中能登の民話・伝説]

(出典:5話とも『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))

◎的場の石 
 (旧:鹿島町・現:中能登町)武部の田んぼの中に、的場という畠地があります。そこには奇怪な形をした石が多数点在していますが、それらの石にはさわると祟りがあると言って、採る者もいなかった。

 江戸時代の天明のある年、肝煎の与次郎の倅の某が、庭を構え、的場より石を運んで庭石としたところ、その母が病に罹ってしまった。医療の手を尽くしたがその甲斐もなくあとは死を待つばかりの状態となってしまった。

 そんなある日修験者が病人の容態を見、その後、屋敷を一廻りしてこう言った。「この病気は、他所からここに石を運んだ祟りである。その石を元の所へ返せば、病はなおるだろう」と。そこで早速、その庭石を元の場所に戻してみると、母の病はたちどころに癒えたとのでした。

◎机島の硯石 
 (中島町沖に浮かぶ)机島には、島の名の由来である机形の石と並んで、地上に二尺(約60cm)ほど露出した硯石があります。
 中央に凹形のくぼみがあり水を湛(たた)え、盛夏旱天の天候の時でも、また霖雨(ながあめ)の天候の時でも、水の量にいささかの増減もないと言われています。俗に弘法大師の硯石と呼ばれたり、あるいは大伴家持卿の硯石とも呼ばれたりもします。

 昔からの言い伝えで、この水を掻き立てるようなことがある時は、どんなに快晴の天気であっても、忽ち大時化(おおしけ)となって、船をこぎ戻すことができないほどになると言われています。

 (昭和3年から数えて)数年前の事である。石工の幾人かがこの島に渡り、巨石奇岩を切り出していた。あとは最後の鑿(のみ)を、硯石に加えるだけとなったその前夜、空には一片の雲もなく風は凪の状態で鏡の様に静かな状態であったのに、夜半と思われる頃から、石工の寝ていた小屋が倒れそうになるほどにビリビリと揺れだした。

 石工らはビックリしてガバッと跳ね起き、小屋の外へ逃れてみると海は依然として凪いだ状態で、月さえ煌々と照り輝く夜空なので、不思議に思い、再び小屋に入り枕に就けば、またもや物凄い音を立て揺れだすのであった。

 その恐怖に彼らは、小屋で寝るのをやめ、松の木陰で戦(おのの)きながら一夜を明かしたのであるが、日が出るとついに、石工たちは、後始末もそこそこに急いで、この島から引き揚げてきたとのことである。

◎八幡様 
 今(昭和3年)より800年前、(七尾市)石崎の漁師・孫次郎なるものが牡蠣浦に出漁したところ、石塊が一つ網にかかった。
 その漁師は何気なくその石を取り除いて海の中に投げ捨てたが、その後も、海に網を入れると、その場所に下ろす時は、必ずその石が網にひっかかって、引き揚げると入っているのであった。

 孫次郎も、はて不思議な石だなー、と思っていた。ある夜、その石が夢に現れ「吾は神なり」と告げたので、孫次郎は驚いて牡蠣浦に赴き、網をおろしてその石を得て、それを我家に今度は我家に持ち帰って、祀った。そして後には、祠を建てて氏神としてこの石を祀った。今ある八幡社がすなわちその祠であります。

 このような訳で、人々は孫次郎の家を神様のお里と称して、神輿を出す時は、常に孫次郎の家の東から渡御するのを仕来りとした。その後、この地域の東西双方の勢力争いより、神輿を出す時は、交互に東西から渡御し始める事に変更した。しかし、東を後に、西を先にする時は、神輿が大磐石でもあるかのように重くて、とてもとても担いで動かすなどとはできるような状態ではなかった。この奇跡により、西方も遂に(我を通すのをやめ)折れて、元のように東から渡御し始めることになった。

 この御神体が、海からあがったと言われる牡蠣浦は、今では埋め立てられて浜岡新開となっているが、八幡平と称して榊を植えてその記念としています。

◎日の輪石 
 (旧:鹿島町)水白(みじろ)の一本松地蔵のあたり、県道を横切る川に架けた大石を、日の輪石と言った。日の輪石は、日の出日の入り及び正午頃、空が晴れ渡る日、直径が一尺(約30cm)あまりの日輪のような影がこの石に映ることから名づけられたものである。昔、これを盗みとろうとした者がいたが、大雨が沛然として降り、遂にその目的を達成できなかったという。日の輪石を、橋として架けたのは、旧藩時代であるが、この地方の人々は勿論、武士でさえもこの石を踏むのを畏れたといいます。

◎雨乞石 
 雨乞石は(七尾市)麻生と(七尾市)清水平の間にあり、昔、山婆が持ち帰った石と言われ、旱魃の際、雨乞を行えば必ず雨を降らせるといいます。


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田舎の黒烏 [奥能登・能登町の民話]

 (参考:『鳳至郡誌』)

 昔、鵜川(うかわ)(現鳳至郡能登町鵜川)の三田(さんでん)に四郎右衛門という者がおりました。
 都へのぼって、某中将とか申す貴族の屋敷に仕えて、庭掃きの仕事をしていました。
 四郎右衛門はまことに愉快な男で、また歌といったら、三度の飯より好きな男でしたから、暇さえあれば、箒を逆さに、大きな声で歌を歌いながら、踊っていました。

 ある日、某中将の姫君がこれを聞きつけました。御簾(みす)をかかげてその様子を見ると、その男の格好といい、踊りといい、まるでキチガイ沙汰でしたから、つい罵(のの)しって揶揄(やゆ)しました。
 「お前の声は、田舎の黒烏そっくりぞよ。早う、仕事でもおし。」
すると四郎右衛門は、直ぐに歌で以って答えました。
 「羽打ち揃えて立つときは、中将姫も下に見る。」

 ところが悪いことに、二人の様子を、姫の母君が窺がっていました。そして母君が言いました。
 「姫、そなたの仕草は、われら貴族にあるまじきこと。このままには置かされませぬ。ささ、今すぐにも、この屋敷を出てもらいましょう。」
姫君は、しきりに許しを乞いますが、受け入れられません。それで、今となっては仕方なく、自分の屋敷を出ました。

 けれども、どこへも行く宛が無いので、ただ泣きながら、門の外を彷徨(さまよ)うばかりでした。
 四郎右衛門は、これを大層憐れに思って、
 「もし良かったら、おらの里へ行きませんか。」
と言いました。それではというわけで、姫君は四郎右衛門と連れ立って能登の諸橋(現鳳至郡穴水町諸橋)に着きました。

 その時は、船路をとったので、はじめについた所を、今でも姫崎と呼んでいます。
 二人は、そこから山田川を遡(さかのぼ)り、程よい場所に住居を構えました。二人は楽しく暮らしました。
 ほどなく、息子が生まれましたが、村人はそれに因んで、ここを「産田(さんでん)」と言う様になりました。今の三田(さんでん)がそうです。


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