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狐に許しを乞うた間右衛門(まよもん)  [奥能登・穴水町の民話・伝説]

(参考:「加賀・能登の民話」、「石川県鳳至郡誌」)
 
 昔々のこと。穴水の兜村に間右衛門という樵(きこり)がおりました。
 ある日のこと、間右衛門は、奥山深く入り込んで、木を切り倒していました。
 すると間右衛門が、仕事に精を出している間に、人目を忍んで狐が現れ、木陰においてあった間右衛門の弁当を残らず盗み食いしてしまいました。

 さてお昼となり、間右衛門は弁当を食べに木陰にやって来てみると、笹皮の弁当包みが散乱しているだけで何も食いものは残ってません。見れば周囲に狐の足跡が残ってます。さては近くに棲む狐の仕業だなと知ると、彼は大いに怒りました。

 ある日、以前弁当を盗まれた場所に近いところで狐を見つけると、間右衛門は斧を置いて追いかけました。狐は巣穴に逃げ込み出てきません。そこで間右衛門は入口から枯れ枝や枯れ草を押入れ、火をつけて子狐もろとも殺してしまいました。

 実は、この時、牝狐(めぎつね)は出かけていて無事でした。夫、子供を失った牝狐は復讐して怨みを晴らそうと心に誓いました。

 彼女は、界隈一帯の狐のみならず、遠く珠洲は三崎の狐にいたるまで、応援を頼みまわりました。復讐を期したある月の満月の夜、能登一円から、牝狐のもとに何百頭にものぼる同志が集まりました。

 夜分に乗じて狐達は、間右衛門が住む村はずれの家を見下ろす山に移動しました。そして群れを引き連れた牝狐が「コーーーン」と一声鳴いて気勢をあげると、狐達は一機に駆け下り、間右衛門の家に押し寄せました。

 間右衛門の家は、何百頭もの狐に襲われたのでは、堪りません。まるで竜巻ににでもやられたかのように、あっという間に柱は折れ、壁、戸板、障子は破れ、屋根は崩れるといった見るも無残な有様となってしまいました。

 しばらく呆然としていた間右衛門でしたが、正気に戻ると大層後悔しました。そして夜が明けると、山深く分け入り、牝狐のところに謝りに行きました。
 それで牝狐も間右衛門を許しました。その上で牝狐は、また多くの狐達を動員して、間右衛門の家をすっかり元通りに修繕してやりました。

 この話を聞いた村人はそれから、野山の狐を決して苛(いじ)めなくなったといいます。
 それきりぶっつりなんばみそ。


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葭(よし)が池 [奥能登・能登町の民話]

 (参考:「加賀・能登の民話」、「石川県鳳至郡誌」 )

 鵜川の吉谷というところの話です。
 昔、ある晩、二子山の方に盆をひっくり返したくらいの篠つく大雨が降り、そこへ大木を引っこ抜くほど凄まじい風がおこりました。荒れ狂った挙句、恐ろしい山鳴りとともに、あたり一面を揺るがしたので、村人たちは一晩中生きた心地も無く、小さくなって震えていました。
 嵐が去った明け方、村人たちは早速外へ出て、周囲の様子を調べました。すぐわかったのは、東の裾野にあったはずの水神池が、山崩れのため跡形も無く消えていたことです。

 村人は、心配になって、数人づつの幾つかの組みに分けれてなおも周囲の方々の土地を見て周りました。そのうちのある組が、諸橋の竹田に行く途中、妙な事に出くわしました。
 村一番綺麗なヨシ(葭)という娘が、薄靄(うすもや)のかかった溜池の畔(ほとり)に恍惚な表情をして何故か座っているのです。よく見ると時々髪を梳(くしけず)りながら、わが姿にうっとりと見とれています。腰に鎌を差しているところを見ると、池の畔に生えている葭を刈りに来たようです。
 それを見て
 「ヨシ!」
と一人の男が叫びそうになったのを別の男がさっと口を塞(ふさ)ぎました。
 それから村人たちは、木の陰に隠れて、じっと様子を窺(うかが)いました。

 するとヨシは、池に櫛を落としたらしく、池の中に腕を入れて手探りしています。やがて櫛を拾い上げたヨシは、櫛を口に咥(くわ)えて、両手で髪を手挟みました。
 そして櫛を髪に差し入れることはせず、懐に仕舞い込むと、今度は、池の水を掬(すく)って、さも美味しそうに飲みはじめました。何度も何度も水を掬って飲むことをやめようとはしません。

 村人たちが気になって、ヨシの方に近づこうとした時です。
 池の中から、大きな龍が躍り出てきて、やにわにヨシを抱きこみ、ガバッと水底へ姿を消してしまいました。 
 村人は恐れ戦(おのの)きました。その場から逃げようとしますが、どうした事か足の自由が利きません。
 もたつく間に、池がみるみる大きく広がって、周囲3町ほどになったといいます。  


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中能登の椀貸伝説四話 [中能登の民話・伝説]

●椀貸穴 
 中能登町小田中/親王塚(出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))
 (旧:鹿島町・現:中能登町)小田中にある※親王塚の墳丘の頂に小さな穴があります。この村の貧しき人々が必要な時に、膳椀衣装類を借りて使用したのだといいます。入用の場合は、その前夜に穴に向かって頼んでおけば、明朝その品が穴の中に取り揃えてあるのである。しかし借りたまま返さない者もあったあったため、遂に貸し出ししないこととなってしまいました。神職能登部家には、借用した衣装についていたという管玉が所蔵されていると伝えられています。 (この記述は、昭和9年のものを現代語風に私が書き改めただけのものなので、現在の管理も同様か否かなど確認はしておりません)
※親王塚に関しては、私のホームページ「能登の古墳」の頁の初めの方に、紹介しています。
 明治8年(1875)、能登国造(くにのみやっこ)の祖、崇神天皇皇子・大入杵命(おおいりきねのみこと)墓として陵墓に指定され、宮内庁の管理下にあります。

●物貸石 
 (出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊) )
 (七尾市)池崎より(七尾市)直津に行く所に、横打(よこうち)と云う畑地があるが、昔、そこの大きな石があった。この石を物貸の神様といいます。村の人が、この石に所用の品を頼む時は、膳や椀は勿論、金銭までも貸し与えられたが、天正年間の頃、石動山の僧がやって来て種々の物を借りていったが、そのまま返さなかったので、物貸の神様も怒って、遂に貸し出しをしなくなってしまった。
 
●貉(むじな)の居
 (出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))
 (旧:田鶴浜町・現:七尾市)吉田より羽咋郡加茂村(現在の志賀町加茂)に至る山中に「貉(むじな)の居」と称する洞窟があります。入口は狭くわずかに身を入れることが出来る程度の大きさですが、洞窟の内部は約1坪の広さがあり、数人くらい入れる大きさであった。洞窟内は古くから多くの貉が棲んでいたので、貉の居と称したのであった。
 昔、吉田の某家に、饗応の用事があったが、家具が不足していた。それで家人は夜中、洞窟の前にやって来て、膳・椀、その他、望みの品々の貸与を請い願ってみた。そして翌朝行ってみると、前日頼んだ件(くだん)の器物が取り揃えてあった。それ以来この地方の人々は、膳・椀その他望みの品々を借りたい時は、ここにやって来て借りたのでした。しかしある時、心得違いの者がいて、この洞窟から入用の品々を借りたのに、それらの物を返さなかったので、その後は、如何に懇願してもそれらの品々を貸与することはなかったとそうだ。
 
●弥三平狐 
 (出典:『石川縣鹿島郡誌』(昭和3年発刊))
 (七尾市)石崎寺山の東堂ヶ谷という所に、昔、村人から弥三平狐と呼ばれている老いた狐が棲んでいた。村人がこの狐の穴に到り、家具の借入を頼んでおいて、一たん去ってから、後ほどもう一度穴の前に行ってみると、頼んでおいた家具が数を揃えて穴の口に出し置いてあったそうである


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稲舟の蟹報恩譚 [奥能登・輪島の民話・伝説]

(参考:日置謙校訂本「能登名跡志」、「鳳至郡誌」の「泰澄法師の法力」 )

 輪島の町より十町(約1.1km)離れたところに稲舟村という村があります。往来より、山手にあります。この村に笠原藤太と言う村役がいました。先祖は由緒がある家柄で、数千年続く百姓であります。ですからそのあたりでは並びもない大金持ちだったそうです。 

  昔は、藤太は輪島に住んでいました。その頃の話です。ある年、このあたりは酷い旱魃に見舞われました。田畑の多くが、カラッカラに乾いて割れてきたので、その当時の主がこのことを嘆き、「何卒、この田へ水を与えて下さい。願い叶えてくれた者には、私の大事な一人娘を与えましょう」とつぶやいて神仏に誓いました。

 するとある時、いずことも知れぬ所から一人の若い男がやって来て、「わたしがこの田を水で充たしましょう。」とそれだけ言いと立ち去りました。その夜大音響の雷とともに大雨となり、翌朝には、それらの田は水で充たされました。

 その後、その男が再びやって来て
 「あなたの田んぼへ一晩で水を張ってみせたぞ。約束どおり娘をいただきに来たぞ。」
と娘を連れて行こうとした。

 藤太は、何故心に祈ったことを知っているのだろうと訝(いぶか)ったが、思わずつぶやいてしまったのを聞いたのに違いないと思い
 「嫁入りの仕度もいるこっちゃし、少しの間待っちょくれ。」と男に頼んだ。
 男は、しばらく待つことにして、その日は一応立ち去った。

 藤太は、男が帰った後色々考えてみた。あの男は心に祈った言葉を聞き届けたり、雷を操ったりすることが出来た。でも神様が人の大事な娘を呉れというはずがない。男はきっと魔物に違いない、と思えてきた。
だがあのような魔物にどう対処して拒めばよいか考えあぐねた。

 ところで藤太の娘は心優しく、自分の食べた残りかすなど与えて一匹の蟹を育てていた。
 父親の心配を察した蟹は、
 「ご恩返しをしましょう。」
と言って、その若者が実は、この輪島川の淵に棲む大蛇の化身であることを知らせた。
 藤太は、蟹が教えた条件を若者に告げた。それは家の周りの全ての戸を閉め、その中にいる娘を連れて行くことを許すというものであった。

 一度は去った若者であったが、ある日、夜更けを待って藤太の家に忍びより、大蛇の本体を現した。大蛇は、その家を七重半巻きに纏いついて締め付けて、やがて潜り戸の鍵穴から首を入れて侵入しようとした。
 すると家の中には大きな蟹がいた。蟹はのたうちまわる大蛇を8本の足でしっかと押さえつけ、残る2本の手、つまり鋏で、この大蛇を九つに切断して大蛇を殺してしまった。父娘はそれにより救われました。

 大蛇の死骸は9箇所に飛び散り、落ちたところは池となり、その池毎に、蛇が棲むといわれています。
 今現在でも蛇池と呼ばれ、近郷に9箇所のうち8箇所残っているようです。その中でも、惣領村の内深見という所は、頭が飛んできたところで、これを親池(惣領の蛇池)と呼ばれました。

 池には恨みを抱いた大蛇の恐ろしい悪霊が棲みつき、その後も笠原藤太の家に祟りをなしていました。毎晩のように藤太の家に現れ、不気味なうめき声を立てるために、藤太のあの可愛い一人娘が重病に陥ってしまいました。

 その頃、泰澄大師が、旅の途中、この家に泊まりました。この事をお聞ききになり、法力を用いて、この悪霊を退散させてしまったので、その後は、無事に暮らせるようになったそうです。
 その例をもって、この家では5月8日に、泰澄大師の教えを継がれた石動山の衆徒が、僧正廻りの際には一宿する仕来たりがあり、翌日は深見の親池で加持祈祷を行うのだそうです。

 このことがあってからは、笠原の家では蟹を大切にして殺さず、家にも潜り戸を用いなかったといいます。石動山は鹿島郡にあり、大きな山伏寺がありました。

 またこの惣領の蛇池は、鵠巣山登山自動車道路をつけた時、埋められてしまったようです。

 ※大蛇の体が、九箇所に飛んだのは、別伝の話では沢山のカラスがそれらを咥えて、各地に落としたとも書いてあります。


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道案内した地蔵さん [口能登・宝達志水町の民話・伝説]

(参考:「志雄町の民話と伝承 第一輯」志雄町教育委員会) 

 昔々、出浜(宝達志水町出浜)の村にひとりの若い漁師が住んでいました。ある日の早朝、若者はいつものように、漁に出かけようとしてさざ波が打ち寄せる浜の波打ち際を歩いていました。すると夜の闇をほんのりとぼかしたような明るさが漂う海の向うから、波にゆられてプカプカと浜へ流されてくるものを見つけました。若者は、‘はて何だろう。何が流されてきたのかな’と思いながら、近寄って見ると、それは、どこから流されてきたのでしょうか、木に彫られた有難い地蔵さんでした。若者は、びっくりして拾い上げ、そっと腕に抱え込んで、大切に家に持って帰りました。

 しかし家にそっと置いたつもりでしたが、貧乏人の暇なしで、漁を一生懸命やっていないと食っていけないので、忙しさにまぎれて、いつのまにかその地蔵の事を忘れてしまい、家の隅にほったらかしにしてしまいました。それから幾日も過ぎ、若者が気がついた時には、事情を知らない家の者が、誰かにやってしまったらしく、地蔵さんの姿はなくなっていました。 

 さて、その地蔵さんですが、黒く汚れた年季の入ったものであったせいか、家から家へと譲られて、めぐりめぐってある家にたどり着きました。
 ある晩、その家の主が寝ていますと、その地蔵さんが、夢枕に立って、「あるじ殿、あるじ殿、申し訳ござらんが、海の近くの家にわしを戻しては下されんか。」と、頼みます。単なる夢かな、と思っていると、同じように地蔵さんが丁寧に頼む夢を何度も、何度も見たのでした。

 はじめは、何のことかさっぱり分からなかった家の主も、「この地蔵さんは、最初は、きっとどこかの海の近くの家に居られたのかもしれない。それで‘戻してくれー、戻してくれー’と頼んどるのやろ。」と気付いて、「よし、ほんならいっちょ有難い地蔵さんのため、探してやっかー」と、翌朝から、この地さんを持ってきた人を訪ねたり、あっちこっちの村の人に聞いたりして、地蔵さんのおられた所を探し始めました。

 幾月かして、ようやくこの主は、最初にこの地蔵様を拾い上げた若者の家を探しあてました。そうして、地蔵さんは無事に若者のところに戻ることが出来たのでした。若者は、地蔵さんが戻ってきた奇瑞もあるし、そんな有難い地蔵さんを放ったらかしにしたのを悪く思い、家の近くの道端に小さな祠を建てて納め、それからは毎日お供え物をあげて拝み、末永く大切にされたそうです。

 その頃、旅の人々は、ここが加賀と能登の結節点であり、他に歩きやすい往来道もないので、出浜の浜を通り、能登に行ったり加賀に行ったりするのが普通でした。
 ある日のこと、ひとりの旅人が、出浜の浜をとぼとぼと歩いておったが、その日は厚く雲が垂れ込めた日でもあったので、日が沈むとそれこそ釣瓶落としのように、すぐにあたりが真っ暗になってしまいました。

 「あー、道がわからなくなってしまったぞ。どうしたもんかな。道に迷ったのかもしれんな。」
と思いながら、あたりを見回してみても何も見えません。足元に気をつけながら、あっちへうろうろこっちへうろうろしていると、向うの方に、ちらちらと灯りが見えました。旅の人は、「おや、あれはなんじゃろー。赤い灯がみえるぞ。」
と藁にもすがる思い出、そちらの方へどんどん歩いていきました。

 歩いていくと、そこには地蔵さんが立っていました。地蔵さんが辺りを、ぽーっと赤く照らしていたのです。旅の人は、「何と有難い地蔵さんなんだろう。あー、有難や、有難やー。」と手を合わせてお参りし、感謝しました。そして、地蔵さんのある近くの家の戸を、トントンと叩き、一夜の宿を頼んだら、そこの家の人は快く泊めてくれました。あくる朝、旅の人は加賀の方へと歩いていったそうです。

 旅の者が、夜道に迷って困っていると、地蔵さんが、ぽーっと赤く光って、目印になったという不思議な話は、旅の人を泊めた家から村中に広まり、「何と、慈悲深い地蔵さんやろ。これからは絶対粗末にしてはならんぞ。」と、言うて村中皆で大切にし、後々までその話を伝えたということです。


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大呑六合の長者(熊淵の長者) [中能登・七尾の民話・伝説]

 参考:「石川縣鹿島郡誌」(昭和3年発刊)、
     (日本の民話21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)、
     「穂にいでずつっぱらめ」(坪井純子著・七尾市立図書館友の会刊行)

スクナヒコナが上陸したといわれる海岸の近くにある(七尾市黒崎の)宿那彦神像神社の写真   昔々、大呑の(現在の)熊淵の近くの山中に、とても大きな荒熊が棲んでいました。熊は山野を我が物顔に、のしのし歩き回り、田畑を荒らしたり、家畜を襲って食べたりしました。機嫌の悪い時など人間にも襲いかかるなどして、それでその辺りの村の人々はいつもびくびくして暮らしておりました。

 冬が近づき、熊も冬眠に備えて食物を腹いっぱい詰め込もうとしだし、それにつれ近隣の村への被害がさらにに増えだしました。村人は、ついに堪りかねて、弓の名人でもある村の長者の所へ何とかしてください、と頼みに来ました。長者も、その時、これといった思案はありませんでしたが、村人の難儀を見ていると、頷(うなづ)く他無ありませんでした。

 なかなかいい方法が浮かばず幾日かが過ぎ、長者が、釜の辺とか釜前(かまさき)と呼ばれる浜辺へ出て塩を焼きながら、あれこれと熊退治の思案をめぐらせていると、海の方から、「おーい、おーい」と自分を呼ぶ声がしました。はて誰かなと目を凝らしても、海しか見えません。もう一度呼ぶ声がするのでもう一度じっくり見ると、小さなそれはとても小さな船に乗った人が、浜辺に近づいてきました。 

 「わしはスクナヒコナじゃ。お前にはなんぞ、心配事でもあるのか。」
と聞いてきました。
 「実は、わたしが住む村に熊が現れ害を与えるのです。どうか助けてくださいませ。」
そこでスクナヒコナは、良い思案を親切丁寧に教え授けました。長者は、スクナヒコナが水平線の向うに消えるまで見送った後、早速、村へとんで帰り、村人を集めて、急いで熊退治の準備を始めました。近くの川を堰きとめ、まず深い淵を造ったり、できた淵脇の狭くなったあたりの崖の上に隠れるところを作ったり・・・・。せっせとはげみました。

 いよいよ熊退治の当日です。スクナヒコナにからかわれいきりたった熊が奥山から出てきました。長者を見つけると、猛然追いかけてきました。長者は淵脇を必死に逃げます。熊に追いつかれる間際に、狭くなった通路の上から、熊めがけて石や丸太が落とされました。熊はたまらず淵に落ちてしまいました。アップアップして必死に岸に這い上がろうとするところを、長者をはじめ、人々は、一斉に弓矢を射り、槍や石を投げつけました。さすがの熊も、怪我で弱り、淵の中で溺死してしまいました。

 その後、この退治劇にちなみ、熊を落としたあたりを熊淵と呼び、その川の名もを熊淵川と呼ぶようになったようです。また熊が棲んでいてスクナヒコナの神がからかいながら誘(おび)き出したあたりは生出(おいで)と呼ばれるようになりました。(釜前という名も、おそらく塩水を釜で焼いたことと関係があるのでしょう。)熊淵川の生出(おいで)付近を撮影したもの
 村人は、大喜びし、それからは安心して、暮らせるようになったそうです。
 
 この長者の噂は、四方に広がりました。ある日、熊淵から北へ二里ほどいった海岸地帯の集落からの使いが、長者を訪ねてきました。
 「長者さま、助けてくさんせ。おらちゃの村にゃ、ムカデに似た大蛇くらいの毒虫が一匹おって、危害を加えてどうにもならんのでござんす。」
その毒虫の通り過ぎた後は、草木も枯れ、また毒気にあたると、動物や人間もバタバタ倒れてしまうのであった。
 使者の頼みを聞いて、長者は捨て置けぬと思い、特にまだ思案はなかったが、
 「おらにできるかどうか。まっ、やってみましょう。」と引き受けました。

 返事はしたものの、名案はなかなか浮かばず、またスクナヒコナに会えぬものかと釜前の浜へ行って見ました。すると運良くまたスクナヒコナの神が現れてました。話を聞くと、スクナヒコナは、
 「それなら、倒した熊の胆(きも)(五臓六腑)と、頭陀袋二つぶんの唐辛子を用意しなさい。」
とまず指示し、そのあとの策を懇切丁寧に授けました。
 長者は、それを聞き終えると、またスクナヒコナが見えなくなるまで見送ってから、その足で、使者が来た村へ向かいました。

 村人に毒虫退治の準備させ、完了すると、翌朝、長者は、腰に鉈をぶら下げ、二袋の唐辛子を背負うと、広場の松の大木に上り、木の茂みに身を隠しました。そして松の木の下には、熊の胆を置き、毒虫をじっと待ちました。
 しばらくすると、熊の胆の臭いを嗅ぎつけて、毒虫が現れました。毒虫がじっと近づくのを待ち、胆に喰らいついた瞬間、長者は、木の上から唐辛子を毒虫めがけて雪の如く撒き散らしました。

 毒虫は、これにはたまらず、涙を流してのたうち回っていると、木の上から長者が飛び降りて、首のあたりや顔に、メッタギリに鉈で斬りつけました。とうとう首を切られ、毒虫は死んでしまいました。
 これを傍で隠れて見ていた村人は、広場に出てくると長者を胴上げし大喜びしました。
 そしてこの毒虫がでたあたりの集落は、この話にちなんで虫崎(蟲崎)(むっさき)と呼ばれるようになりました。

 ところが、ほっとする間もなく、今度は虫崎からさらに北へ一里ほど進んだ海岸の集落から、またまた使者が着ました。その使者が言うには、拡げた羽が数丈もありそうな大きい真っ白な悪鳥が、伊掛山から飛んできて、村人に害を与えるといいます。収穫間近の田んぼや畑を食い荒らしたり、赤子を攫(さら)ったり、相手は空を飛ぶので手に負えないとのこと。長者は、やはり名案はすぐには思いつきませんでしたが、これまた何とかしないといけないと思い、またまた退治を引き受けました。

 長者は、弓には自信があったので、とりあえず矢(箭)を箙(えびら)に入れて背負い、自慢の弓を持ってその村へ向かいました。その白い悪鳥が出てくるのを待っていると、確かに現しました。狙いをさだめて矢を何本か射ってみましたが、相手は大きすぎて効き目がありません。長者は、がっかりして、逃げ戻ってきました。帰り着いてから、あれこれと何か他に退治の方法はないかと考えてみますが、いくら考えても、やっぱり名案が浮かびません。今度もまた釜前へ行ってスクナヒコナの神に、
 「どうか、また悪鳥退治の名案を授けてくださいますように。」
と祈りました。

 すると、今度もまたまたスクナヒコナの神は沖から近寄ってきて、長者の願いを聞きました。
 「その悪鳥を退治するには、五人引きの弓で、毒矢を放つよりほかあるまい。」
そしてまたその方法を長者に詳しく教え授けました。
 長者は、大弓と大きな矢を作ると、先に殺した毒虫から毒を抽出し、甕に溜めました。そして、悪鳥が出る集落から少し離れた場所に庵(小さな小屋)を設け、悪鳥を5、6人の屈強の村人と一緒に待ち受けました。

 次の日の真昼時、悪鳥が、見かけぬ庵を見つけて上空を旋回しだしました。長者は、悪鳥に見つからぬよう気をつかいながら、矢を毒甕に突っ込み矢尻にたっぷりの毒をつけると、村人と一緒に、弓を持つものと矢を引き絞るものに分かれ、空飛ぶ悪鳥めがけて狙いを定めました。悪鳥が少し下りてきて、過たず距離まで近づくと、頃合を見計らって矢を放ちました。

仏島(ほとけじま)   狙い違わず命中し、ギャァーーと悲鳴を上げました。長者たちは、二の矢をさらに射り、三の矢も射ようとするので、悪鳥は、矢が刺さったまま、残る力を振り絞って、逃れようと舞い上がりました。よろよろと海の上を飛びながら、やがて力尽き、有磯の浦の足姫ヶ崎の波打ち際、仏島(石川県と富山県の県境になっている沖合い数十mにある小さな島・右の写真)の辺りへ、ばっさりと落ちて、倒れました。
 村人の歓声をあげ、大喜びをしました。

 この白い大きな悪鳥が現れた村は、この話にちなみ白鳥と呼ばれるようになりました。
 大呑の村々の人々は、村々の難儀を取除いたこの長者を熊淵の長者と呼び、大変尊敬しました。その後、長者が亡くなると、沢山の人々が集まって葬儀が行われ、長者の亡骸は山崎の霊夢山というところに祀られました。そこが現在の阿良加志比古神社ということです。
阿良加志比古神社(七尾市山崎町)  
(参考)
 この大呑六合というのは、集落名でいうと山崎、花園、熊淵、大泊、東浜、黒崎、佐々波、江泊、大野木、上湯川、岡、須能、管沢、麻生、清水平、小栗、柑子山、外林、澤野、殿にあたるといいます。「鹿島郡誌」の神社の項では、この大呑六合の長者とは阿良加志比古神で往古、この地がまだ未開の時にこの地に住んでいた老翁であるといいます。
 この話にまつわる阿良加志比古神社(左の写真)は、長者がなくなった後、現在の山崎にある霊夢山(りょうむざん)というところに祀られ出来た神社といわれ、北大呑・南大呑地区の43社の中心社となっています。また智恵を授けたスクナヒコナノミコト(少名彦命・宿那彦神)は、その来着したと言い伝えられる地(黒崎)を、いわゆる巌の磐境(いわくら)と斎定して、大石を御霊代として宿那彦神像神社として祀られています。スクナヒコナは、能登で大国主命に協力して、能登国平定に尽くしたといわれています(→平国祭)。 


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乳もらい地蔵  [奥能登・輪島の民話・伝説]

(参考:『輪島市史』)

 空熊町の乳もらい地蔵)
空熊町下地の中舎(なかすな)家所有にある地蔵は、雲光型の光背があり高さ約70cmほど、手に錫杖をもつ延命坐像の姿をしており、室町時代の作と推定されています。俗に「乳もらい地蔵」と称されています。伝承によれば、沖の崎の海底から引き揚げられた尊像であるといいます。また別伝で奥山から運んできたら、ここで動かすことができなくなり、そのまま安置したとも言われています。

 霊験あらたかで、特に母乳不足の母親にお乳を授けるとのことで、昔から信仰が厚く今なお参拝者が絶えないといいます。
 お詣りする人は、煎り菓子と蝋燭・線香を添えて祈ると良いといわれ、乳が出るようになった者は、盆・正月、または年の暮れにお礼詣りをします。その時は珍しい食べ物の他、地蔵様の帽子や前垂を奉納します。

 堂守は中舎家で、「中砂」即ち「なかすな」で乳を授かり充分に赤子に飲ませ、泣かさないようにとの意味を持つ屋号であるとのことです。この家は、中舎庄三郎という人から代々続いています。地蔵様は、一時盗まれたことがあります。しかし、仏のお告げでほどなく犯人がわかりすぐ取り返すことが出来たといいます。昔、この地方の人に家具を貸してくれたという椀貸し伝説と重なって伝えられています。

 稲舟のいりこ地蔵)
 この空熊町の地蔵の他に、乳を授ける地蔵様が稲舟の国道249号線にそってひっそりと安置されています。いりこ(麦の粉)を供えて祈願するので「いりこ地蔵」とも言います。現在小さな祠の中に新旧二体が納められています。旧い方は風化が甚だしいがこれが昔からのものです。霊験あらたかとして、遠近問わず参詣客が後を絶たないということです。 


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首切り地蔵 [口能登・志賀町の民話・伝説]

 (参考:『石川県羽咋郡誌』)

 昔々、梨谷にイタズラ好きな百姓がおりました。
 野良仕事のための移動の途中など、周囲を見ながら毎日のように何か面白いイタズラはできないものかと考えていた。いい考え思いつくと、人に気付かれぬようこっそりとイタズラをして立ち去り、後でそのイタズラで困っている者がいた事など知ると、陰で腹を抱えて笑うのを楽しみとしているのでした。

 ある天気のいい日、その百姓は馬をひいて北吉田のとある山中へ草刈に出かけました。
 半刻(約一時間)も経つと、もう馬の背に乗せられないほど沢山刈り取ることが出来ました。

 さてもうそろそろ帰ろうかの、と思いふと右横を見ると、路傍に丈一尺ほどのとても穏やかな顔をしたお地蔵様が立っていました。その姿がいかにも無邪気に見えるもので、彼はついいつものいたずらっ気が出てしまいした。バチあたりにも、その首に草履を引っ掛けてしまいました。

 翌朝、百姓は再びその場所へ草刈の続きのため通りました。すると誰の仕業か、昨日お地蔵様の首にかけておいた草履が見当たりません。この道は、山中の道で、他の集落などとの往来道ではないので、おかしいな、と思ったのです。周囲をあちこち探してみると、かなり遠い所にその草履は捨てられておりました。

 不思議だなと思い、お百姓は、地蔵の顔をジロジロ見ますと、今日はどういう訳か、自分に向かって「このだらぶち(アホタレ)」と言わんばかりの顔つきにみえます。それが癪にさわり、いたずら好きな百姓は、今度は、何と有難いお地蔵様の首に鎌をかけてグイッと引っ張りました。
 
 すると妙な事もあるもので、石なのに、あたかも肉を切るかのようにスーッときれいに切れて、首が落ちてしまいました。百姓は、イタズラとはいえ思いがけぬ結果にゾットとし気味が悪くなりました。

 草刈も早々に終え、気味悪い気持ちを引き摺りながら家へ帰ってきました。
 ところが、我家へ帰り着いた途端、草を担がせてきた馬が何かに吃驚して一声大きく嘶(いなな)きました。そして躍り上って暴れ、一人で馬屋へ駆け込もうとしました。

 百姓は手綱を持って、必死に取り押さえ鎮めようと頑張りますが、興奮して狂ったように暴れる馬にはぜんぜん効き目がありません。我が身も、馬屋の方へずるずる引き摺られていきます。

 そこで百姓は、ついに堪りかねて、最後の力を振り絞って、手綱を思いっきり強く引き寄せました。
 ところが、その時、馬も満身の力を振り絞って馬屋へ突っ込んだものですから、百姓は手綱を握ったまま、ひゅーんと宙に舞い上がりました。そして運悪く、カモイに頭をぶち当てて、即死してしまったということです。


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てんぼ大須古(おおすこ) [中能登・中能登町の民話・伝説]

参考:石川縣鹿島郡誌(昭和3年発刊)、
   (日本の民話 21)「加賀・能登の民話」(清酒時男編)
   「石川の民話」石川県教育文化財団)

 昔、(旧:鹿島町・現:中能登町)久江に大須古という名の大地主がおりました。
 ある晴れた日、谷内へ畠仕事に行き、昼食をしようとして弁当を広げたところ、握り飯1個を取り落とし、握り飯は、転がって畠の隅の鼠の穴に入ってしまいました。
 男は、その鼠の穴を掘り返し、握り飯を探し求めたけれども、ついに見つかりませんでした。

 仕方なく残りの握り飯を食べて、草の上に転がって午後の一休みしていると、
 「大須古さん、大須古さん」
と自分を呼ぶ声がします。はてな誰だろうと立ち上がって周りを見回しても誰もいません。

 座りなおすと、また同じ声がするので、今度はじっくりとその声の方をみてみると、一匹の鼠が呼んでいるのでした。そして、
 「先程は、握り飯を頂きましたが、誠に美味しかったです。何かお礼をしたいと存じますので、何卒、私共のところへお遊びにお出で下され」
というではないですか。

 大須古は、
 「行ける物なら行きたいが、でも鼠の小さな家へどうやって行くのかの。」
と返事をしました。すると、
 「では私に背中に負んぶしてください、そしてお目をつぶって下さい。私が良いと言うまで決してお目を開けてはいけません。」
というので、言われるままに、
 「それでは行って見ましょうか。」
目を閉じて鼠に負われました。

 しばらくすると、やがて「もう着きました」と言う声である。それで目を開いてみれば、日も出ていないのに、あたりは真昼のように明るく、目の前には壮麗なる御殿造りの屋敷が建っていました。
 鼠らは、門の前に居並び「ようこそ」と、喜び迎え、上を下への大混雑となりました。
 大須古は、そのまま奥座敷へ通されました。

 「ただいま、白御飯を差し上げますから、少々お待ちください。」
と言い残して、鼠たちは米搗き部屋へ下がりました。一匹の鼠が、米搗(つ)き部屋でとんとんと米を搗いていたが、杵に和して「鼬(いたち)かちかち猫さえおらにゃ鼠この世は極楽さ」と歌い囃しました。周りの鼠もそれにあわせて合唱しだしました。

 大須古は、それが妙におかしい調子なので、もともとむらっけの多い男だった事もあり、ちょっとイタズラ心を起こしました。これは1つ驚くかもしれないと
 「ニャオオ~ン」
と猫の鳴き声を一声真似てみました。

 するとどうでしょう。猫まねの声をするやいなや、鼠らは慌てふためくざわめきとともに、ドカドカドッカーン、バッターンと大きな物音がし、あたりは急に真っ暗になってしまいました。
 そのため大須古は、ただ1人暗くて冷たい穴にとり残されてしまいました。

 鼠たちは、どこに隠れ潜んでしまったのか、と思い、大須古は
 「どうしたんかい。誰か来てくれー」
とあたりを呼びますが、も何の返事もありません。もと来た道も探して求めましたが、道も穴も見つかりませんでした。

 仕方なく、素手で地上へと頭上の土を掘り、穴を穿(うが)ってようやく這い出しましたが、爪は勿論、指までする切れてなくなり、とうとう‘てんぼ’(手の爪も指もなく、手首だけの様を「てんぼ」という)になってしまった、ということです。

 師走23日の朝、春祭りの宿に当たる家で、一椀の小豆雑煮を供えますが、この日は必ず雨が降るといわれ、これを大須古の跡隠といいます。古い古謡に「曾冨騰大須古能登の人生れ在所は久江の谷内なり(かつて冨栄えた大須古は能登の人、生まれた在所は久江の谷内であ)」とあります。


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音無川の薬水の由来  [奥能登・能登町の民話]

 (参考:『石川県鳳至郡誌』)

 能登町の猪平地区には、音無川という清流が流れています。昔々、羽根を怪我した鷹がこの水で傷を癒しているのを旅の僧が見つけたそうです。この鷹を見た僧はとてもこの水を気に入りゴクゴクと飲んでいたのですが、どうもこの水には傷を治す効果がある様子。さっそく地元の浮腫で悩んでいた老婆にこの水を勧めてみたところ、なんと翌日の朝には腫れがひいていたそうです。それ以来、この清流の沸かした水を飲むと浮腫が治るといわれているそうです。(能登町・猪平地区)

 この話には別伝もあるようで、「のとツーリズム 奥能登観光ガイド」(カテゴリーの「能登の民話集」を選びクリックし進むとこの話が載っている)では旅の僧が飲んでいた川の水を、近所の浮腫に悩むお婆さんが飲んでみたところ、翌朝には浮腫が治っていた、という内容になっています。そちらも併せて読み、比べるのも楽しいかと思います。


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